ヴァーチャル・リアリティについて
- 2008/02/29(金) 14:26:17
まぁ、こういうのはゲームや何かで、一番触れあう事も多いだろう。アートというと少し違うが。西新宿のICCはインタラクティブなアートを沢山紹介している。それよりも、ますますインタラクティブなモノが世間に溢れかえるだろう。アートはその使い方を工夫しているに過ぎなくなっており、後追いの状況が続いている。
ヴァーチャル・リアリティというのは仮想空間を自らが入っていく。その中で、能動的に動いた場合に仮想空間自体も反応する事で、相互交換性が発生する。これがインタラクティブという事だ。より高次になっていくと、仮想空間で手に取ったリンゴの重さを実際に感じたり、その匂いを感じるという夢の世界に入っていく。このような世界になった時に、アートはどう対処するのか分からないが、少なくとも左右が反対に見える眼鏡なんか、身体感覚を崩すという意味で結構アートだと感じた。
今の所進んでいるのは、人の動きによって(照明や画像で)風景を変えたり、「セカンドライフ」なんかがなじみ深いだろう。しかし、より公共性が増していくヴァーチャルリアリティには、何か恐ろしいものを感じている。ゲームのような個人的な行いと同じように発展してしまうと、世界は崩壊してしまう。インタラクティブでないという事は、顔も見えなければ、痛みも感じないということなのだ。そして、快楽も味わえない。
実はアートの領域で、やるべき事があるように感じている。この先、ヴァーチャル・リアリティがどのように発展するか分からないが、少なくともしばらくはネット上に止まるだろう。ということは、しばらくは性欲を解消する事はできない。なぜなら、ヴァーチャルとは言っても自分自身ではないのだから。性に対してどのようなアプローチをするかとアーティスト達は考えて良い時期に入っていると考えている。実際にインタラクティブで性欲が解消できるとなると、それはどんな装置なのだろうと、ちょっと面白そうだ。展示や誰に見せるかという所で、かなり企画は難しいが、問題提起がされていないのは寂しいと思っている。
『醬油画資料館』小沢剛
- 2008/02/28(木) 11:29:02
懐かしい作品群だ。まだ作家がそこまで有名でなかった時に、展示の手伝いをした事がある。確か・・・1999年だから、もう10年近くになる。いつの間にか六本木ヒルズで展示するくらいになってるのだから、本当に八面六臂の大活躍だ。醬油画資料館は当時も常設展示されていたのか記憶にないが、とにかくコンセプトが面白い。
醤油画というジャンルなどない。小沢が作り出した架空の芸術である。醤油によって絵画を描くという意味の分からないジャンルを作り、資料館という形でその歴史をでっち上げた。資料館というと、地元の歴史や古い道具など、またそこから生まれた作家の作品などを展示する。この資料館は正に、醤油画というジャンルが昔から続いていたかのように、一つずつの道具や作品が展示されている。
デュシャンがレディメイドの作品を美術館に持ち込んだのは、美術館という箱に展示される事によって、それが何であっても美術品に見えてしまうという現代芸術の転換であった。それに対してこの作品は、何でも美術品に見えるという事ではなく、架空の歴史やストーリーを作っている所に特徴がある。そして、資料館自体をでっち上げる事が新鮮である。
その手法は小説のようで、何から何まで創作である。当然、それは資料館のパロディであり、過去の芸術作品のパロディでもあるのだが、そのパロディをそのまま見せるのではなく、そこにストーリーを結び付けたところが凄いのだ。彼の他の作品も同様にストーリーや、裏に見える情景が面白く、作品を作品だけで完結させないように意識しているように思える。日常に見えかくれする違和感を、面白おかしく切り取ってくれる。彼はきっと単純に、面白いものが好きなのだ。
『小椅子の聖母』ラファエロ・サンティ
- 2008/02/26(火) 11:54:55

盛期ルネッサンスの巨匠である。いや、一般的に想像するルネッサンスを体現しているとも言える。だからつまり、王道なのだ。しかし、作品量や大規模なプロジェクトを考えると、意外な程に早死にしている。熱病か、性病に罹って死んだようだが、37歳である。彼がもしミケランジェロやレオナルドくらい生きていたならば、芸術の歴史は変わっていたかもしれない。
この作品は晩年、といっても30代前半に描いた絵である。丸い構図に描かれた作品で、キャンバスは酒樽の蓋だったと伝えられている。丸い画面に窮屈そうに聖母とイエス、ヨハネが描かれたいわゆる聖母子である。それにしても強引に描いた。普通に考えると、もう少し小さい人物を描かないと、構図としては成り立たないようにも思える。だが、この作品は成立しているのだ。
この同じ時期に、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家だったブラマンテが死に、代わってラファエロが任命されている。彼は他の同時期の芸術家と同じように、建築家としいても活躍した。ルネッサンスは比例と均斉である。それは神の真理であると解釈された。古代の理論的な発想が蘇がえり、キリスト教文化と合体した。だからこの時期の芸術は、全て神の真理から作られるのだ。結局、絵画や彫刻や建築は同様の理論から発想する事ができ、職業的な別がなかった。
この作品の丸い構図は、ルネッサンス期の代表的な比例的発想から生まれたといっても良いだろう。彼は一方『アテネの学堂』という極めて構成的な絵画も残している。まぁ、これを描く人なんだから絵画理論には精通しているに違いないが、それが昇華できると、この作品も描けるのだと私には思えた。
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『午前4時の宮殿』アルベルト・ジャコメッティ
- 2008/02/25(月) 11:03:06
ニューヨーク近代美術館、通称MoMAにこの作品はあるが、さて、この作品は芸術を多少は勉強でもしていないと、おそらく知らないだろう。この作品は一目見て何なのか分かる人は、かなり特殊な頭の構造をしていると思う。実際、私には全くわからない。舞台装置の模型のようでもあるし、そもそも構想中の習作に見える。
ジャコメッティはロダン系統の彫刻家である。と、こう書くと語弊があるが、ロダンの弟子であったアントワーヌ・ブールデルという人に学んでいる。まぁ、弟子といってもアシスタント的に働いていたようだ。つまり比較的しっかりとした造形を作る一派にジャコメッティは学んだ。その造形感覚は後年の細くデフォルメされた人間の彫刻に表れているが、『午前4時の宮殿』はそんな作品とは全く違う。
宮殿か何か建物のような輪郭とその中にも輪郭だけの箱。おそらく人と、何やら訳の分からないオブジェ。シュルレアリスムの影響だろう、抽象化され過ぎて、見ている人間にとっては意味などないに等しい。どうもジャコメッティ自身の失恋の気持ちを表しているらしいが、そんなもの作品を見ても全く分からない。では、この作品はどう見れば良いのだろう?
個人的な人間関係を作品にするというのは、近世以降の傾向である。そもそも絵画や彫刻は、個人的あるいは家族などの近親者の幸せを願うための祈りのための道具であった。それは天災などの厄除けの他、子孫にその知識を継承していくための道具だったのだ。互いに信じているからこそ、成立するということも重要である。そう考えてみると、個人の感情を扱った作品を見る場合、人の中にある蓄積された知識を覗き見るということではないだろうか?そこには何か教えてもらう事もあるだろう。問題は受け手の感受性にかかっている。
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『那智瀧図』
- 2008/02/22(金) 14:54:03

根津美術館のお宝である。作家でもあり、ド・ゴール政権下で文化相を務めたアンドレ・マルローが、感動したことでも有名な作品である。一般に垂迹画(すいじゃくが)と言われる分野の絵画だ。この作品は、神格化された那智の滝を描いたという、言わば風景画なのだが、そうは問屋が卸さない。
那智の滝は和歌山にある。この辺りには他にも幾つか有名な滝があり、その中の一つなのだ。では、なぜこの滝が特に有名なのかは、それが鑑賞しやすく、感動しやすい空間にある事による。こういう事は重要で、本来の自然崇拝は人間と自然との共存とともに戦いでもあったから、象徴的な対象は目に見えたり体験できるものでなければいけない。だから、滝や山が祀られたのだ。後の神道は人格化された神を祀るが、そもそも原始宗教に神は存在しない。
この絵は神格化された滝の姿なのだ。だから、風景画ではない。おそらく当初から、家に飾られるような絵として書かれた訳でもないだろう。祀る対象として描かれているのだ。だから、描き方は自ずと変わる。まず、滝をこのように正面から捉えてみる事はできない。そして、極度に抽象化されつつ、那智の滝だと認識できる絶妙のバランスを保っている。
この作品の成立時期は鎌倉時代中期頃とされているが、考えてみると、この作品以前にも客観視した視線というのは存在していた。それは簡単に説明すると鳥瞰図のような作品である。こういう描き方はパースをきかせるのではなく、アクソメ的に描くから説明的になる。しかし、人間にはこのような感覚を持っているから、見た事のない空からの風景でも認識できるのだ。この作品はグラフィック的であり、アクソメ的である。これはむしろ抽象よりも現代的である。
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『聖テレサの法悦』ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
- 2008/02/21(木) 09:28:44

バロック彫刻の最高傑作と言われる作品である。バロックというのはなかなか難しく、これはバロックだと言い切るには、結構な知識が必要になる。単純にいうと、バロックはダイナミックな構図と動きがあるということである。以前のルネッサンスは古代ギリシアやローマを参考にしていた所からも分かるように、極めて理論的で、均整の取れた安定した構図である。と、こう書いても実は必ずしも言い切れないのがバロックの難しい所で、時代的に合っているのかというのが大きいのだ。
例えばベルニーニの代表作と言えばサン・ピエトロ大聖堂前の広場と列柱廊だ。ローマの観光名所と言えば、フォロ・ロマーノからコロッセオ、そしてサン・ピエトロ大聖堂だ。だから有名すぎる。が、これがバロックだとはなかなか分からない。第一デカすぎて空間的な体験が、動きのあるような流動的な体験になりにくい。しかし、建築ではなく彫刻や絵画になると少し分かりやすく、この作品ともなると正にバロック的なのだ。
聖テレサの心がが神の手によって触れられた・・・こう書くと語弊があるが、まぁ、神と合体するような感覚によって、恍惚としているのが、この彫刻の概観であり、横にいる天使は心臓を射抜く矢を持っている。このテレサのエクスタシーに達したような表情は、当時においても論議を巻き起こした。なぜならテレサは聖人に列せられた神と近い人であり、あまりに人間的に、それもエロティシズムを感じさせる所が、ちょっと待てと捉えられた原因である。
しかし、その恍惚とした表情や、天から降り注ぐ光と、全体的な肉体の上昇感。これがバロックなのだ。沈みこんじゃいけない。上昇するのだ。イエスとの結婚や、イエスとの合体という体験は、特に女性の聖人に多い。科学的に解明すると、極端な食事制限や睡眠不足で、幻覚を見たというのが本当のようだ。女性の方が信仰に真っ直ぐであったとも言えなくもない。
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『ラディエーションスーツ・アトム』ヤノベケンジ
- 2008/02/18(月) 12:11:29
少し古い作品だが、個人的に印象深くこの作品に決めた。ヤノベケンジほど恐怖を伝えてくれる作家はいない。SFのキャラクターのような作品は一見するとキャッチ−だが、そのキャラは廃墟や放射線被爆した場所と直接繋がっている。当然、その場所にいることもあれば、リアルタイムで被爆量が表示されることもある。
放射線は言わずもがなで、人体に影響を与えるが、一方で、現代社会に無くてはならない存在である。そして、歴史的には多くの悲劇を生み出してきた元凶でもある。日本人が放射線を気にすることは滅多に無いだろう。当然、原発の事故などはあり、そんなに遠い話ではないのだが、都市部に住んでいる人間にとっては意識しにくいのは事実である。
さて、この作品は放射線を守るために作られたような、宇宙服のようなスーツである。しかし、所々にガイガーミュラーが取り付けられており、放射線を検知する。ラジウム検知器だが、目や股間に付けられていると、その部分にこれだけの放射線を浴びているのかと恐ろしくなる。目に見えないものを見えるようにする工夫は誰でもするが、それがリアルに感じられる工夫はなかなか難しい。
難しいことは考えずに、もし、この服を着て、旅をすれば放射線をなるべく浴びないように生きることができる。ん〜、これは極めて難題である。もし危険を最小限に生きるなら、放射線だけでなく、地震・火事・雷・洪水などの天災は申すに及ばず、危ない人間関係や食事にも気を付けなきゃいけない。そう考えると、このスーツの意義は極めてぼんやりしたものになる。ヤノベはおそらく人間の注目していることが、一面に過ぎないということを見せてもくれる。
『グランド・ジャット島の日曜日の午後』ジョルジュ・スーラ
- 2008/02/15(金) 15:50:23

美しい絵である。こちらもあまり興味がなかったが、色々と作品を書いているうちに、思い出した作品である。スーラのこの作品は、点描で描かれた最も有名な絵画だろう。点描というのは実際に見てみると本当に驚く。美しさとかいう芸術的感想よりも、まず、その技術や忍耐強さに感嘆の声を上げてしまう。明らかに面倒で、その工芸的な作業に驚嘆するのだ。
31歳で亡くなったスーラはそれほど多くの作品を残していない。そりゃ点描なんか、なかなか描き上げるのは難しいだろう。彼は印象派としてはほぼ最後の世代にあたる。印象派は従来の写実的な絵画から、脳で捉えた感覚的な色彩を表出する絵画である。
布施英利は「脳」と「目」の絵画という対比をしていた。この絵は「脳」の絵画である。言わばテレビ画面と同様に点で構成されておきながら、目には一連の風景として見える。点描は光を分割する方法で、極めて近代的な発想である。印象派は光の構成を考え出したことから、西洋絵画の変換期にあたる。まぁ、その後にゴッホやセザンヌといった、空間自体を再構成するような絵画が現れるから、どちらが近代の幕開けかというのは難しいが。
この絵画で一番残念なのが、題材が面白くないことである。人が沢山いるが、静かで誰もが止まったように見え、何気ない風景である。もしもっとダイナミックな構成や空間が描かれていたとすればどうであろう。もしかしたらより面白かったかもしれない。当然、点描を紹介するのに、内容に意味を付けてしまうと、点描の意味が無くなってしまうかもしれない恐れはある。夭折したから、その後の発展がなかったのだったら、これはこの上なく残念である。しかし、点描でもしダイナミックな構成の絵画を描こうとすると、技術的にも非常に難しいのは分かる。少なくとも点は均質であるから、色のみで動きを表現するのだから、当時の風潮としては革新的すぎるかもしれない。
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